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青年海外協力隊の平成22年度第4次隊員として、2011年3月から2013年3月までアフリカのガーナに派遣されています。ガーナの真ん中ら辺にあるのどかな田舎の高校で、コンピュータの授業を担当しています。


by エスパー

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砂漠

でも、聞いてくださいよ。

俺がね、平和を築こうとしているのにね、みんなが邪魔するんですよ。

麻雀知らない人のために言いますけどね、麻雀にはピンフって役があるんですよ。平和って書いて、ピンフなんだけどね、俺はね、そのピンフを一生懸命作っていたんですよ。平和を願ってピンフを、点数安いのに、頑張って作ってるのにね、まわりのオヤジたちがどんどん、邪魔して、俺を負かすんですよ。俺は、世界を平和にしようとしているのに。これ、おかしいですよね。

ちょっと、何をしんとしているんですか? だいたいね、世界のあちこちで戦争が起きてるっていうのにね、俺たちは何やってるんですか。平和の話をしてるんですよ、俺は。呆れててどうするんですか。

先週のニュース見ましたか? アメリカはまた、中東を攻めますよ。ずいぶん前に、核兵器がないイラクを攻めといて、「俺、何か悪いことした?」なんて開き直っている国がですよ、前科ありの不良国がですよ、また別の国を攻めるって言ってるんですよ。でもって、石油を狙ってますよ。自由の国が自由を奪って、なのに、日本の若者は怒らないんですよ。不良の舎弟だからですか。

あのね、おまえたちね、信じられないかもしれないけど、ジョー・ストラマーもジョーイ・ラモーンも死んじゃったんですよ。

あの、パンクロッカーの二人がいなくなって、もう、世の中はどうなっちゃうんですか。俺たちが立ち上がるしかないでしょう? 学生の俺たちが。パンクロックの精神はね、馬鹿な学生が引き継ぐしかないでしょう。

あのね、俺たちがその気になればね、

その気になればね、砂漠に雪を降らすことだって、余裕でできるんですよ。



私が敬愛する作家、伊坂幸太郎の「砂漠」より抜粋しました。

俺はですね、砂漠に雪を降らせたいんですよ。
# by ito_akihiro | 2010-04-10 21:22 |

私には、夢があります。

と、その前に。私のカンタンな生い立ちを、少しだけ。

私は昭和55年5月27日、岐阜県海津郡平田町(現・海津市)に生を受けました。同じ岐阜県民にも知られてないようなド田舎町ということで、悲しいくらいに交通網が発達しておらず、小学生の頃から自転車通学を余儀なくされていたくらいです。そんな感じで生活環境的にも至極不便だっただけでなく、家庭環境的にも決して恵まれていたとは言えず、まさしく中の下流階級といったところでしょうか。まあ、ひらたく言えばライトなビンボー家庭です。小中学生の頃は家に帰っても特にすることが無いので、学校帰りに長良川の土手に寝そべって日が暮れるのを待ち、満天の星空を眺めては時間を潰すという孤独で寂しい毎日を送っていました。もちろんテレビゲームなども我が家には無かったので、休日には朝から晩まで友達の家に入り浸ってひたすら勇者のレベル上げ、なんてこともしていました。相手のご家庭にとってはさぞ迷惑な来訪者だったことと思います。

そんな惨めな環境で育ったからでしょうか、家計を助けるために高校卒業後は進学せずに就職しようと思い、高校は職業訓練系の学校を選択しました。でも、3年の月日が経って、卒業を間近に控えても、特にこれといって就きたい職業なんてありませんでした。サラリーマンになんてなりたくないし、敷かれたレールの上を走るなんてこともしたくない。などといった、まるで尾崎豊の歌詞に出てきそうなことをひそかに胸に秘めていました。かといって勉強も大嫌いだし、なんとなくで進学するのもイヤ。それでいて経済的にも決して余裕があるわけではなかったので、選択肢を絞っていった結果、卒業後はフリーターになることを決意しました。とはいえ実家のド田舎では働き口もごくわずかいうことで、一念発起して家を飛び出し、知り合いの先輩を頼って名古屋の隣にある日進市という所に移住することになったのです。

フリーター時代は、基本的には某大手100円ショップで店員として働き、ときどき日雇い派遣や短期アルバイトでも食い扶ちを得ていました。また数週間単位で休暇を取り、まとめて日本全国を旅するなんてこともしていました。このとき47都道府県のうち46箇所を制覇したのですが、残る1箇所、さとうきびとサーターアンダギーの島には未だに行っていません。

もともと、フリーターの期間は2年間と決めていました。いつまでもフラフラしているわけにもいかないから、2年経ってやりたいことが見つかったら、その道に進もう。見つからなかったら、とりあえず進学して、それからやりたいことを見つけよう、と心の中で決意していたのです。そんな矢先、忘れもしない西暦2000年12月4日の月曜日。まもなくリミットの2年が経過しようという直前のことです。

この日の夕方、アルバイト先からの薄暗い帰り道を歩いていた私は、目の前の段差に気づかず、もんどりうってそこから転落したのです。1~2mとそんなに高さがあったわけではなかったものの、打ち所が悪かったのか、両脚を骨折。なんとか一命は取り留めたものの、左足に関しては根元からポッキリ折れ、担ぎ込まれた病院では「最悪、一生車椅子生活」とも言われていました。

こうして、突然にして地獄のような入院生活がスタートしたのです。20世紀から21世紀に変わるミレニアムな瞬間も、一生に一度しかない成人式の日も、21世紀初となる誕生日も、全てベッドの上でこの世のものとは思えないような痛み、苦しみと闘いながら迎えました。順調さを欠きながらもケガは徐々に回復に向かい、ようやく車椅子で移動できるようになったのが、2001年の6月です。21世紀になって初めてシャバの空気を吸えたのが、21世紀になって半年も経った頃というわけです。このとき味わった感覚が、どんなに切なく、どんなに嬉しかったことでしょう。間違いなく一生忘れることはない、苦すぎる思い出です。

その後、リハビリ用の病院に転院し、歩行用装具、松葉杖などを経て、ようやく再び2本の足で歩けるメドが立ち、退院することになったのが2002年の6月です。実に事故から1年7ヶ月も後のことです。ちなみにこのケガの後遺症は10年近く経った現在でも色濃く残っており、両脚の長さが3cmほど異なっているほか、跳んだり跳ねたりといった激しい運動なども言語道断です。この事故に遭うまでは、アルバイト用の履歴書の「特技」の欄には常に「スキー」って書いてたぐらいなんですよ。いまやその伝説的な腕前を見せられないのが至極残念です。

退院後すぐに、まずは今後の身の振り方について考えました。これまでさんざん苦労してきたことで、何か社会のために生かせないかと考えたところ、次世代を担う子供たちや、病気・ケガなどを抱えた子供たちのために尽くせるのではないか、と気づいたのです。自らが味わってきた挫折や、大きな障害を克服した経験を未来ある子供たちに伝えることで、子供たちに何か影響を与えたい、考えてもらいたい、そう願うようになりました。

ここまでのお話だけですと、苦労といっても貧乏とケガだけじゃないかと思われるかもしれませんが、実は私の人生においてはもうひとつ大きな苦労があったのです。

私は小学4年生のときに母親を亡くしました。交通事故でした。9歳という非常に多感な時期に起きた悲劇ということで、事故直後は絶望感に苛まれ、10日間以上も何も喉を通りませんでした。でも生きるためには、食べなければいけません。食べるためには、作らなければいけません。不幸中の幸いと言ってしまうと語弊があるかもしれませんが、小学生にして炊事・洗濯・掃除まで、家事はひととおりこなせるようになってしまったのです。

幼い頃に交通事故で親を亡くすと、「交通遺児の会」といったボランティア団体にお世話になることになります。私も当時、夏休みに旅行に連れて行ってもらったり、地元でクリスマス会などを開いてもらったりしました。Give & Takeということで、私自身も大学生の頃にはボランティアとしてお世話する側として参加していたことがあります。こういった経験からも、恵まれない子供たちのために何かしてやりたいという願望はますます強くなっていきました。

別に子供が好きってわけではないんですよね。むしろうるさいし、言うこと聞かないし、うっとうしいし、何考えてるか分かんないから、どっちかといえば嫌いなくらいです。子供のために何かをしてあげるのが好きなんですよね。お医者さんだってそうだと思います。病気が好きなお医者さんはいないでしょう。病気の人のために力になってあげるのが好きなんだと思います。

このような紆余曲折を経てようやく“子供たちに何かしてあげられる職業に就く”という夢を見つけた私は、病院を退院した後、半年間独学で猛勉強して京都にある某私立大学に入学しました。子供たち相手にできる商売を考えたとき、まず頭の中に浮かぶのは「学校の先生」ですよね。というわけで、ここにはあくまで教職を目指すために入ったわけですが、教員養成用の学部では将来の視野を狭めてしまうと思い、あえて一般の大学から社会学部を選び、そこで教職課程を取ることにしたのです。社会学部を選んだのは、社会の先生になりたかったからであり、社会の先生になりたかったのは、(旅行が大好きで)地理が得意だから、ただそれだけの理由です。歴史なんかは大の苦手なんですけど。

アルバイトとサークルと京都観光に明け暮れた大学生活はあっという間に過ぎてゆき、いよいよ就職活動の時期になりました。現在は学校の教師も社会人経験が求められるという情報を聞き、また教員採用試験よりも就職試験のほうが先に行なわれていたため、面接の練習も兼ねられると思い、とりあえず周りに流されるままに就職活動を始めました。学部ではジャーナリズム論(テレビ、新聞、広告など)を専攻していましたので、最初はマスコミ関係の企業を中心に回っていたのですが、ご存知のとおり就活生の間では最も人気があると言っても過言ではないジャンルの業界です。私の就職活動はあっという間に壁にぶち当たることになりました。

そんな最中、ある企業の面接で転機が訪れました。その面接は1対1だったのですが、途中で全く手応えがない空気をお互いに察したのか、いつの間にか面接から身の上話に転じたのです。私もその選考は完全に諦めていたので、開き直って雑談がてら就職活動のアドバイスなどを面接官に求めました。相手は私の履歴書の「資格」欄に書いてある情報処理や簿記関連の資格を見て、なぜこの業界にこの資格が必要なのか、と尋ねてきました。高校が職業訓練系の学校だったため、当時取得した資格をとりあえず書けるだけ書いておいたほうがアピールになるだろうと、特に考えもせずに手当たり次第に記していただけなのですが、これだけ持っているのなら、例えば情報処理の資格を生かしてシステムエンジニアなどといった道も考えてみたらどうか、との助言を頂いたのです。IT業界といえば3Kと呼ばれるような不人気業界。しょっぱなから将来の選択肢には入っていなかったのですが、とりあえずこれも悪い経験にはならないだろうと思い、物は試しということで矛先を変えてみたのです。

そうして方向転換後の1社目が、奇しくも現在の会社であり、あれよあれよという間に内定まで頂いてしまったのです。なぜこの会社を選んだのか、正直よく覚えていません。ただ、この会社に決めた理由は覚えています。内定を頂いた翌々日から教育実習に入ることになっており、しばらく就職活動を休止しなければならなかったので、「もうここでいいや」的な感じで終止符を打った覚えがあります。辞退するのもめんどくさかったですし。かくして、システムエンジニアとしての人生の火蓋が切って落とされたわけです。

だから内定をいただいても、入社してからも、ずっと心の中では「一生ここにいることはないんだろうな」と、ぶっちゃけ思っていました。確かに入社時の面接では「この会社で一生頑張りたい」とか、歯の浮くようなセリフを口にしていたはずです。そもそもそう言わなければ入社するのなんて無理でしょうしね。ただ、入ったからには、この会社のために、社員みんなのために精一杯頑張りたい、そう思っていたのも紛れも無い事実です。

ただし、その期間は、3年間。石の上にも何とやら、という意味で3年です。嫌なことがあっても、辞めたくなっても、とりあえず3年は我慢してこの会社で頑張ろう、3年経ったら次のことを考えようと決めていました。そしてその3年間はあっという間に過ぎました。昨日で、丸3年です。本当に、色々なことがありました。実に、あっという間だったと思います。一番の思い出は・・・さすがに長くなりそうなので、割愛ということで。


さて、前置きがかなり長くなりました。いよいよ私の「夢」の発表です。上記でもちょっと触れましたが、私の夢は“子供たちに何かしてあげられること”です。それと実はもうひとつありまして、それが「恵まれない国の、恵まれない人々の力になること」なんです。

母親を亡くした恵まれない私を、人々はボランティアで助けてくれました。大きくなってから私は、そのお返しとばかりに、恵まれない人々をボランティアで助けました。要するに、それをちっぽけな日本だけじゃなくて、地球規模で、グローバルに展開したいってことなんです。極端な話、恵まれた先進国の人が、恵まれていない後進国の人を援助するのって、義務だと思うんですよ。権利じゃないです。義務です。責任です。なんで困っている人を見て見ぬフリが出来るのかが、分かんない。俺がやらなくてもだれかがやるだろう的な考えが、大っキライ。俺がやんなきゃ誰がやるんですか。こんな飲み食いするのにも全く不自由しない恵まれた環境で育って、一生ぬるま湯につかったまんま、悠々自適に過ごすなんてありえない。だって、世界には、今日食うのにも困ってる人が何億、何十億といるんですよ。同じ地球に生まれた同じ人間で、差別とか格差があるなんて、信じらんない。めんどくさいからとか、自分には関係ないからとかいって、誰かのSOSを無視することなんて、考えられない。だから、持っている者は、持たざる者を、救うべきなんですよ。そして、私は幸か不幸か、前者です。だから救うんです。救いたいんですよ、この世界を。それも、自分の手で。

まあ、キレイゴトかもしんないですけど、とりあえずやりたいんです。興味本位かもしんないですけど、やってみたいんですよ。一度しかない人生、やりたいことをやらずに、後悔なんてしたくないんですよ。


私の愛読書のひとつ、サン=テグジュペリの『人間の土地』に、こんな一説があります。

人間であるということは、とりもなおさず責任をもつことだ。
人間であるということは、自分には関係がないと思われるような不幸な出来事に対して忸怩たることだ。
人間であるということは、自分の僚友が勝ち得た勝利を誇りとすることだ。
人間であるということは、自分の石をそこに据えながら、世界の建設に加担していると感じることだ。


要するに、私は、世界の建設に加担したいのです。

閑話休題。そんな私の2つの夢を同時に叶えられる道を、見つけました。見つけてしまいました。

それが「青年海外協力隊」です。

しばしば耳にする名前ですが、改めてWikipediaで調べてみましょう。

青年海外協力隊(せいねんかいがいきょうりょくたい、英: Japan Overseas Cooperation Volunteers, JOCV)は、日本国政府が行う政府開発援助(ODA:Official Development Assistance)の一環として、外務省所管の独立行政法人国際協力機構(JICA)が実施する海外ボランティア派遣制度である。青年海外協力隊の募集年齢は20~39歳。募集分野には農林水産、教育、保健衛生などがあり、さらに120以上もの職種に分かれている。また派遣国は約80ヶ国で、これまでに約30,000名の隊員が派遣されている。

これなんです。

この団体の一員になることが、私の唯一無二の「夢」なんです。

この団体の存在を知ったのは、高校生のときです。確かテレビのドキュメンタリー番組だったと思うのですが、協力隊員として汗水たらして働いている日本人を見て、単純に「カッコイイ」と思いました。だって、海外で、単身で、無償で、恵まれない人々のために働いてるんですよ。まるで正義のヒーローじゃないですか。もうカッコ良すぎじゃないですか。だから、動機は不純って思われるかもしれませんが、一種の「あこがれ」なんです。

決めた。俺、協力隊になる。
# by ito_akihiro | 2010-04-01 21:06 |